貴族とは名ばかりの、平民にしては上等な暮らしをしている程度の家だった。
金にも身にもならない鬱蒼と茂る森が領地。

だが幼い頃、イリーズを育てたのはその森だった。
この心を、魂を育んでくれたのは、母でもなく父でもなく、緑と土色の命あふれる森。

目を閉じれば思い出すのは木々を揺らす風と、生命を生かす水の音。

幼馴染の男の子たちと森を駆け回った。
棒切れ一つ、そっと拝借してきた家にあった古ぼけたナイフ一つ。
それだけが身を守る武器。
それでも恐れなく幾らでも無邪気に走り回った。

やがて危険を知り、時に慢心と不注意で一瞬にして奪われるものが命と知る。
自然の恐ろしさを知り、命の意味もあの森に教えられた。

奪い、生きるが人のさだめ。
森の片隅に生きる老婆が言った言葉は今も胸にある。

イリーズは自分が生きることは何かの命を奪っていることだと当たり前のように知っている。
あるいはイリーズは初めからそういう娘だったのかもしれない。

だがイリーズの道を決めた分岐点は確かにあった。

身を守るために獣を殺したことがある。
まだ小さい頃。
天候を読み違えたイリーズのミスだった。
道を見失い、やがて夜を迎え、震える体で生き延びた一夜。
奪った命はイリーズの手に収まるほど小さかったが、段々と消えていく呼吸にイリーズは訳もわからず号泣した。

そして自分の命の意味を知る。
その日からイリーズは昂然と頭を上げ、強い眼差しで前を見据えるようになった。

誰にも負けたくはない。
この命を輝かせること、それが奪い、飲み込んできた命に対する礼儀だと思ったからだ。
私は奪う者。
奪われた命はこの身の一部となって、尚生きればいい。

当たり前のように強さを求めた。
母のように、暖炉の前で編み物をして過ごすことなど考えられない。
父のように幾らかの遣り繰りといくらかの酒を楽しんで生きることも出来ない。
イリーズはそれすら知っていた。

「いつか都に出て俺は騎士になるんだ。王様を守って戦うのさ!」
「あんた達には無理よ、てんで弱いじゃない。どうせなら私の名前を覚えておきなさい。イリーズ・バレンシア、いつか畑を耕して暢気に生きるあんたたちの耳にも届く名になるわ!」

手を腰に、偉そうに宣言したことを覚えている。

強さに栄誉を夢見た。
友人たちと国を守る未来を語った。

「イリーズ、いい加減に女の子らしくなさい」

それを信じていられたのは、そんな夢を見ることを許されたのは少女時代のほんの短い時だけだったけれども。

イリーズは皮肉な笑みを頬にのせる。

「女、余裕だな。笑っている場合か?」

レイテルパラッシュを構え、目敏くそれを見つけた目の前の敵を見据える。
回想は感傷だった。

だがイリーズはふと思う。
誰に憚ることなく剣を握ったのは幾年ぶりだろうか。

「イリーズ、お前が持つのは剣ではなく包丁。学ぶのは立派な淑女たる振る舞いなのよ。」

もぎ取られた剣と、与えられた義務。
途方に暮れて、旅立った学園という檻。
かつて女という性を果てしなく呪った。
多分今も呪っている。

「ええ、笑っている場合よ。笑いが止まらないの。」

かっと血が上って赤くなる相手にイリーズは嫣然と微笑む。
挑発ではなかった。
体の底から湧き上がる感情が彼にはわからないのだろうか。
剣を手に、命の輝きを競えるこの幸せが。

「あなたが止めてくださる?」
「…上等だ、女」

毎日ダンスを踊り、編み物の仕方を教わった。
言葉遣いと社交辞令と流行と、相応しい歩き方に笑い方。
息が詰まりそうだった。

真綿で絞め殺されているのだと、イリーズは魂が腐り往くのを呆然と見ていた。

焦がれるのはあの森。
心の底から笑い、好きなだけ駆けて、命の限り輝くこと許された場所。

イリーズは剣を閃かせる。
ただ一度のチャンス。
あの森を取り戻す、今がその唯一にして最後の機会だった。
逃すわけには行かない。
それはこの命を殺すことに等しい。

振り下ろされた剣の軌道を逸らすために刀身を擦り合わせる。
火花が散った。

その音をイリーズは陶酔したように聞いていた。
寝室を抜け出して、振るった剣の先には誰も居なかった。
剣がその金属音を響かせることはただの一度もなかったのだ。

「ああ、きれい」

呟いてイリーズは剣を引き寄せ、利き足を軸に半回転で刀身を叩き付けた。
勢いのまま、相手の身に沈むかと思えた剣は重い音を立てて止まる。

目を見張ったのは一瞬で身軽さを武器に飛び退る。

「…やるな」
「……あなたも中々どうして、強いのね」

イリーズは内心で舌打ちしながら互いの弱点に目を細めた。
彼は力任せ。
だからイリーズの流す防御と身軽さに逃げ切られた。
イリーズの力は弱い。
だから力を込める溜めの動作が必要で、そのために攻撃には一瞬の間が生まれる。
それは彼が攻撃を防ぐための準備をするのには十分な時間だった。

考え込んだのは一瞬でイリーズは身を躍らせる。
あらゆる手を放ち、勘と意地で防ぐ。

のめり込んで行く視界の端で両手を組んで心配そうに祈る同級生たちが見えた。
小さく、心の中で謝ったのは、もうそこには戻りたくなかったから。

息が上がり、細腕がしびれ始めた頃、勝負は結した。

イリーズは何もない自分の手を見て、それから弾かれた剣に目を落とす。
意味をゆっくりと理解する。

握った手に力は入らなかった。
疲労が全身を覆っていた。

だがイリーズは剣を拾い、敵として相対した男と向きあう。
静かな礼と勝敗を告げる運命の声。

イリーズは黙って背を向けた。

「おい、女。」

悔しさに臍を噛む。
泣きたかったが、女という性を持つ故に泣けはしない。

悔しい悔しい悔しい。
勝てなかった自分と、運命を切り開くことも出来ないこの身が、ただ悔しくて仕方がなかった。

「聞いてるのか、女!…ちっ、おい、イリーズ・バレンシア」

呼ばれた名に驚いて思わず振り向いた。

「お前…」

図体の大きな彼が何かを言おうとしたのを遮って、一つの拍手と微笑と賞賛の声がイリーズを迎える。

「見応えのある試合だった。」
「あ、りがとうございます。ティレドン団長」

嬉しかったが、それはイリーズにとって意味のあるものではない。
彼との賭けにすら自分は負けた。
閉ざされた未来に、強がって曖昧に笑うしかなった。

それも限界だと心が悲鳴を上げている。
最後の矜持で真っ直ぐにバルロを見返して、背を伸ばし堂々と退場してやろうと踵を返しかけた視界に彼が映った。

視界の中で、ケリーはゆっくりと微笑んだ。
その口が動く。
聞こえるはずのない距離。
だがイリーズは足を止める。

「イリーズ、諦めるのか?」

確かに聞こえた。
詰問するのでもなく、諭すのでもなく、ただ優しさに溢れた声だと思う。

疲労から震えていた手を握る。
今度は力が不思議と入った。

「お前の夢は何だ?」

問われて、イリーズは口を開く。
終わった望みを口にするのは勇気がいった。

だがイリーズは誰に恥じることのないこの夢に誇りを託す。

「イリーズ・バレンシア、この名を轟かす事が私の夢。」

顎を引いて、地を踏みしめて、その声は空気を振るわせた。

「ほう、立派な夢だ。だがお前は負けた。」
「ちょ、団長、待って下さい。剣を交えたものとして、俺は言えますよ。彼女は騎士になるのに何一つ欠けたもののない人物です。」

一体何が起きているのだろうか。

「俺は彼女を騎士団の一員となる事を推薦します」

声も出ないほど、驚いた。
同じくらい歓喜が湧いた。
希望にではなく、この剣を、心を、真剣に向き合った者に認められたことに。

「お前の推薦など爪の先ほどの力もないだろうが」

バルロがあっさりと言ったが、イリーズは微笑む。
一人でもいい。
認められた。
深く感謝の念が心に穏やかな凪を運ぶ。

「ふん、だが先は長い。イリーズ、卒業までとしよう。」
「…はい?」
「卒業までに我が騎士団の一員から一本を取れば入団を認めてやる。」
「え?」
「何だ、それとももう諦めたか」
「いえ!」
「ならばいつでも挑戦してくるがいい」

戸惑って周りを見渡せばケリーの笑みに行き合う。

「さっき、期限を言っていなかっただろう?」

イリーズはそれが自分の賭けの台詞の事を指しているのだと気付いて思い出す。
『私が試合に勝ったら』
そう言った。

いつの試合とも言わず、いつまでとも言わなかった。

「なんて……」

自分が何を言おうと思ったのか、イリーズにはわからなかった。
だが言葉に詰まり、そして自然と頭が垂れる。

深い感謝と敬愛を表す術をそれ以外に思いつかない。

認めてくれた対戦相手に。
惜しみない拍手をくれる人々に。
裏切りにも失望せず、今心から喜んでくれる友人に。
こんな取り計らいをしてくれたティレドン団長に。
何よりもこの背を押してくれた彼に。

さげられるものは頭一つ。
叶えるべきは胸に抱いた野望一つ。

涙が零れたのは仕方のないことだった。









イリーズを心配してくださった天希様に無理やり捧げます(汗)