「ケリー。次の休み、狩りに行かないか」
そんな誘いをかけてきたのは、当初ケリーに反発心を顕にしていた少年だった。今ではひよこのリーダーで、よく背後で囀っている。
――狩り。
猟銃などあるはずもないから、猟犬と勢子を連れて弓矢で行うのだろう。そんなもの、ケリーは映画でしか見たことがない。
「父上が連れて行ってくれるんだ。友達も誘っていいというから、どうだろう」
ひよこの世話にはうんざりだが、未知への好奇心は人一倍強い。
少し悩んで、結局ケリーは頷いた。
そうして、早速後悔している。
紹介された“父上”は丁重にケリーをもてなしてくれたが、目つきが完全に“品定め”だ。
(これは……知ってるな)
かなり広い範囲にまで、あの迷惑至極な根も葉もない噂は広まっているらしい。友達を誘ってもいいではなく、名指しで誘えとでも言ったのかもしれない。
まあ、視線で顔に穴が開くわけではないから、どうでもいいといえばどうでもいいが。
――どうでもよくない事がひとつ。
失念していた。
貴族の狩りだ。馬に乗る。
「………………駄目だ、こりゃ」
借り受けた馬は、さすがに学校の教練用の馬とは違って、暴走したり立ち竦んだりはしなかった。かといって、ケリーに馴染んでくれた訳では決してない。
どうやら、怖いモノは無視することに決めたらしい。
手綱を引いても拍車を掛けても無反応。前の馬について走り、前の馬が止まれば止まる。
まったく意に沿わない生き物に、ケリーは早々に匙を投げた。
向きを変えることすら出来ずにいるケリーに、ひよこの親父も呆れ顔だ。やはり噂など当てにならんと、そういう評価を下したらしい。
父親の失望の目線を気にした風もないケリーに、少年は改めて感心した。
あれだけ何でも出来るのに、乗馬だけはその限りではないのはいっそ愉快な程だが、普通なら別の方法で歓心を買おうとしそうなものだ。大人の不興をかう事が恐ろしくはないのだろうか。
「鹿がいたらしいぜ。俺達で仕留めていいってさ」
馬を寄せて声をかける。
渡した弓をためつすがめつ、撓めたり引っ張ったり珍しそうにひねくりまわし始めたケリーに、少年は目を丸くした。
「なんだよ、ケリー。まさか弓も初めてなのか?」
「ああ」
短く答えたケリーは、別に恥じている風でもない。
「…………嘘だろ?」
農民だとか商家の息子だとかいうのならともかく、国王の後見で寄宿学校に入るような者が剣も弓も扱ったことがないなど、普通ありえない。
どこからどう見ても、農民にも商家の息子にも見えはしないし。
「いや?」
あっさり否定されて、少年は嘆息した。
噂の真偽はともかく、いつまでもくすぶったままな原因の一つは、この正体不明の神秘性だろうと思う。まさか、と思いつつ否定できないのだ。
「来るみたいだぜ」
ケリーの声に顔を上げる。
獲物を追い立てる勢子の声と猟犬の吠え声とが、幾重にも重なって近づいてくる。
繁みから飛びだした若い牡鹿は、人影にぎょっとしたように足を止めた。
予想外のその動きで、一矢めは耳の端を掠めて逸れる。
二矢めが届く前に牡鹿はその場を飛び離れ、一目散に駆け出した。
軽やかに跳ねる薄茶の姿態に向かって、少年は馬を急かす。
絶対に仕留めてやる――ケリーの馬が勝手にそれを追いはじめた時には、少年の心中はすでにその一事に占められていた。
(おいおい、まずいんじゃねぇのか?)
勢子の囲みを突破して、供回りも後方に置き去り。閑地を逸れて木々の合間に入り、それでも少年は止まらない。
馬を寄せて声をかけようにも、ケリーの馬はまったく思うように動かない。前を行く少年の後をぴたりと追いかけるだけで、意地でも従うもんかというように首を振るばかり。
(これだからガキってなぁ……)
集中力があるといえば聞こえはいいが、要は周りが見えていない。
(…………?)
水の音が耳に届いた。妙に響く音が、下方から。
前方の繁みの先が、明るんではいないだろうか。
目を使うまでもない。
崖だ。
「待て、馬鹿! 止まれ!!」
怒鳴るのと、短い悲鳴とがほとんど同時だった。
間を置かず、ケリーの視界がいきなり広がる。
連なる緑に細長く拓けた曇天。下方に流れる川のきらめき。
足元は、ほとんど垂直に見えるような急斜面。
この勢いでは止まれない――。
「ちぃっ!!」
無理矢理に、ねじ伏せるようにして手綱を操作する。
馬が恐慌に陥って、背に乗せているのが怖いモノだという事を忘れてくれたのは僥倖だった。
斜面途中の潅木を避け、わずかなくぼみや出っ張りに蹄をかけるよう、なんとか従わせることに成功する。
落下ではなく、駆け下りる姿勢を維持できたのはほとんど奇跡だ。
どうにか川岸に落ち着くまでは、さすがに先に落ちた少年を気にかける余裕はなかった。
水音は耳にしたので川の方へ目をやり――思わず吹き出す。
「ははっ、すげぇ! ムチャクチャな強運だな、あんた」
こちらは早々に手綱を放したのが、逆に幸いしたらしい。
鞍から放り出されて落ちた先で、ちょうど流れを変えた川が淵を作っているなど、そうそうあることではない。
腰まで水に浸かって呆然としている少年は、どうやら無傷だ。
ケリーは震えている馬の首を叩いてやり、鞍から降りた。馬よりは簡単に駆け下りただろう牡鹿の姿はすでにない。
改めて斜面見上げると、傾斜はともかく高さはさほどでもなかった。せいぜい10メートルといったところか。
馬では無理だが身一つなら登れるだろうと結論付けて、今度は川岸に伏してもがいている少年の馬を検分する。
左前足と右後ろ足が折れていた。
馬にとって骨折は致命傷だ。一本だけならまだしも、二本同時に折ってしまっては回復は望めない。
主人を巻き込んで潰さなかった幸運は、少しは慰めになるだろうか。
楽にしてやった方がいいんじゃないか、と進言しようと振り向いて――ちょっと呆れた。
少年は、同じ場所で同じように立ったままだ。死にかけた実感と共に恐怖が襲ってきたのか、蒼白な顔に焦点の合わない目をして震えている。
真剣など触った事もないあちらの子供とは違うだろうに、この有り様はどういうことだ。
「……少年。過ぎた事を怖がる暇があったら、まず現状を把握しな」
手足は動くのかどうか、周囲は安全か否か。自分に何が出来るか、何をすべきか。
生き残る為にまず重要なのは、的確で素早い状況把握だ。次に適切な行動である。
「死にかける度にいちいち呆然としてたら、命なんて幾つあっても足りねえよ。戦場だったらすぐ死ぬぜ」
――その、言葉の重み。
少年にとっては、思い切り頬を叩かれたような衝撃だった。
口調はむしろ軽薄なのに、寒気がするほどに重い。
同年代の少年達の中で、実戦を経験したことのある者などいるはずがないのに、それは間違いなく経験に裏打ちされていた。
気のせいだと片付けられるほど鈍くはない。
目が覚めたような思いで川岸に立つケリーを見上げ、抜き身を突き付けられた時と同じくらいヒヤリとした。
――どうするのだ、と。
そのまま誰かが助けてくれるのを待つつもりか、と。
無表情の瞳にそう問われた気がして、少年は奮起した。
この人に軽蔑はされたくない。
反発心からでなく、心からそう思ったのはこの時が最初だ。
そうして数刻――救助の一隊と合流するまでに、改めて思い知る。
ケリーは、違う。
これはもう、ただちょっと腕が立つとか、そういう事では全然ない。
徹底的に、根本から自分達とは違うのだと理解した。
『俺はケリーを信じる』
誘拐騒ぎと遭遇する近い将来に、少年はそう断言する。
秋野しあ
秋野様、ありがとうございます。
やばいです。ケリーカッコいいです・・・。
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