滑らかに黒光りする首を叩く。
黒主は心得たように嘶いた。

「お前、俺と来るか?」

こんなに気分がいいのは久方ぶりで、ケリーは笑いながら聞いた。
黒主はほんの少し振り返り、後ろ足を跳ね上げる。

「うおっと」

思わぬ行動にバランスを崩してケリーは慌てて鬣を掴み、体勢を立て直してから頭を掻いた。
黒主の答えは明確だ。

「悪かったよ。」

もう一度首を叩いてケリーは冗談交じりの言葉を取り消した。

この世の誰が知らなくても、黒主はわかるのだろう。
ケリーには相棒がいる。

換えのきかない相手がいるくせに。
出来もしない事を言うなと、黒主が足音を響かせる。

ケリーは苦笑するしかない。
そして風を切る音に耳を澄ませた。

少しだけ目尻に力を入れて目を細める。
続いてほろ苦い笑みが口元に刷く。
忘れていたわけではない感情がふと顔を覗かせた。
だが、いるのはグライアだけだから構わないだろうとケリーは感情を隠さなかった。
グライアはその甘えを許してくれた。

強く地を蹴る足が更に速度を上げる。
ケリーは今度こそ本当に嬉しそうに笑い声をあげた。

「グライア、俺を他の馬には乗せないつもりか?」

こんなものを体感させられたらとんでもなく乗り心地の悪いものにわざわざ乗ろうなどと思えなくなる。
黒主はそんな事知るかと走りながら歯を剥いた。
それよりもっと走ろう。
誰よりも速く駆けよう。
訴えかけてくるのは、望むのは一体感。
ケリーは応えて姿勢を低く構えた。
ケリーは相棒と離れ、妻を見失い、空を失ったかわりに変わった友を見つけた。



誰も寄せ付けない黒主。
馬の中の王。
かつてその馬をグライアと呼んだ娘がいた。
長い歴史の中でただ一人、騎乗を許されたのは彼女だけだった。

誰もが忘れ得ぬ光景。
黒い馬と金の髪と翠の瞳を持つ少女。
戦場と勝利と常に共にある光景。

デルフィニアの民は大いに称え、他国の兵は畏怖を込めて彼女を呼んだ。
戦女神、と。

デルフィニア王妃。
グリンディエタ・ラーデン
勝利を約束する妃将軍。

喚起させれらた黄金の勇姿。

「まずいぜ」
「まずいぞ」
「まずいな」

イヴンとバルロとドラ将軍がそれぞれに呟く。
あの王妃の実態を知っている自分達ですら鮮明に思い出してしまう。
彼の少年の姿にあの女神を。

それは取りも直さず、他の人々にとっては更に強烈な印象を残したということ。
数時間後、さすがに汗を滴らせながら一人と一匹が帰ってくる様はいつか見た光景と似ていた。
つまりは帰還したケリーに思わず言ってしまった言葉が全てを表している。

「…お前、本当に王妃の子供じゃあないだろうな」

あの王妃に限ってありえない、違う、とわかっている自分達がこの体たらく。
この事を知った人々が何をどう思うかなどわかりきったことだ。
せっかく下火になったあの噂に妙な根拠が出来てしまった。

それくらい衝撃的な光景だったのだ。
のほほんと与えられた部屋で眠っているはずのケリーの暢気さが羨ましい。
本人は自分が何をしたのか、事の重大性をわかっていない。

「厄介事を次々と…頭が痛いぜ、まったく。」
「どう収拾をつけるかが問題だ。」

もはや起こってしまったことは取り返しがつかないのだ。
考えるべきは今後のことだった。
今回はれっきとした事実だけに困惑せずにいられない。

「何か悪いことでも起こったのか?」

頭を抱える一同に場違いに暢気な声がかかった。

「ケリー、起きてきたのか」

ケリーはこの年代の少年としては驚くほどスタミナがある。
時々同じ時間を過ごす彼らにしてもケリーが体力的な問題で疲れているのを見たことがなかったのだから相当なものだろう。
そのケリーにして昼間の疾駆は相当に体力を奪ったと見え、ケリーは日が沈んで早々に引き上げていたのだ。

ケリーは少々驚きの混じる疑問には答えず、相変わらず暗い顔の面々に小首を傾げて見せた。
そうすると見てくれだけは可愛らしい少年なのだが、如何せん妙に大人びている皮肉屋な内面を知っている彼らにしてみればどうも違和感のある光景だ。
昼間の光景を見ているだけにそんな些細な共通点さえも誰かを想像してしまう。

「問題大有りだ、ケリー。よりにもよってまずい事をしてくれたぜ」
「俺が?」

意外な事を指摘されたようにケリーが目を丸くする。
一体自分が何をしたのかとでも問いかけるような目だ。

「あれは不味かったな。極めつけにまずいぞ、小僧」

バルロが珍しくイヴンに同意して重々しく頷く。
そこまで言われてもケリーには思い到らない。
こんなところはやはりデルフィニア人ではない。
ケリーと彼らの常識は違うのだ。

「黒主を乗りこなしたのは大問題だ。」
「はあ?」

それかよ、という思いとその何が悪いんだ、という思いが混じって妙に間抜けな声が出た。

「お主は知らなかったかもしれないがデルフィニアの者なら当然知っている事実がある。」

そりゃああるだろう。
なにせケリーはまだまだデルフィニアどころかこの世界全般に対して初心者であるからして。
そこのところをケリーはよく心得ていた。
変な見栄を張っても何の徳にもならない。

「黒主が騎乗を許したのは今までただ一人。」

少し考えて知っている限りではと付け加えたドラ将軍の誠実さに少々顔を綻ばせ、ケリーは何か深刻になっている一同に顔を引き締める。

「この国の王妃だけだ。…いや、だったといえるな。」
「…それは不味いな。………まずいのか?」

ちらりとケリーを見て過去形に修正するバルロに思わず同意してから真面目に聞いてみる。

三人三様にため息をついたのは仕方がない。
こればかりは経験の共有がものを言う。
ぴんと来ないのはケリーがあの黄金の勇姿を見ていないからだ。
戦場で最強を誇った美しい人が跨ったのがあの馬。

「まだ誰も忘れちゃいないだろうさ」

それくらいに強烈で、鮮烈な光景だった。

そこに来てただでさえ血縁関係を噂されているケリーが黒主に騎乗を許されたなどという事実が広まれば世間がなんというのかなどわかりきったこと。
人々はやはりと思うだろう。

「事実がどうあれ、お前の立場は決まったようなものだ」

ケリーはそれはそれは見事に顔を顰めた。

「俺は明日からグライアと旅に出ることにする。」
「逃げるなケリー」
「まさか貴様、これだけ問題を大きくしておいて全て従兄上に丸投げしていくつもりではないだろうな。」
「もはや覚悟を決めることじゃ。」

衝動的行動にはそれなりの結果がつきまとう。
ケリーはらしからぬ自分の行動を思い返して天井を仰いだ。
騒がしい日々はどうやら続きそうだ。








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馬の話で何話割いたかしら。