シンと寝静まった王宮。

多くの人が行き来するこの場所も、真夜中過ぎにもなれば揺らめく蝋燭の灯りが影を作る。
その灯りに照らされるのは見回る衛兵達だけ。

日々の政務に熱心な人々も流石に眠りについた頃。
この国で一番勤勉で真面目な為政者でもある王も眠りの恩恵に授かっていた。

いつまで経っても仕事を切り上げようとしない王は臣下に執務室から追い出され、渋々と寝所に引っ込んだのだが、それも見慣れた光景だ。
普通臣下は王の怠惰に頭を悩まされるものらしいが、ここデルフィニアでは反対にどうか休んでくれと言うことの方が圧倒的に多い。

そして寝室で体を横たえた途端に王は急激に襲う眠気に身を委ねた。
疲れているのは確かで、それは体が良く知っている。
休息を必要としているのだ。
だが、それもこうして睡魔に逆らわず目を閉じて、朝に目覚めれば回復する事を王はよく知っていた。

それはいつもと変わらない夜で、このままいつもと変わらない朝が始まるはずのいつもと変わらない日常。
心地よい眠りに意識を手放して、どれほど経ったのか、異様な音と気配に王は目を覚ました。

「…なんだ?」

自分以外には部屋の外に立っている衛兵しかいないはずの王の寝所。
何らかの音が響くわけもない状況で、王は確かにその音を聞いた。
例えれば何か重いものが落ちてきたような、そんな音。

しかし外の衛兵に気付かれるほどではない。
ちらりと衛兵のことも頭によぎったが、真面目に仕事をしている彼らの邪魔をするのも悪いと王は自分の警護こそが彼らの第一の任務であるということを忘れて衛兵を呼ぶ事をやめた。

この王のよくも悪くもある癖。
即ち自分で解決できることは自分でやってしまおうという性質がこの時も遺憾なく発揮されたのだ。

事の次第を知った臣下の激怒する顔と声を思い浮かべなかったのは、覚醒したように見えてもやはり寝起きだったからかもしれない。
今でこそ王と呼ばれる身分だが、その前に戦士としての自分の感覚を王は信じている。

反射的に腹筋の力だけで上半身を起こし、枕元に置いてあった剣を手に取る。
それこそ多くの暗殺者や戦いで自分の身を自ら救ってきた男の本領だ。

「…これは」

王は慎重に闇になれた目で辺りを探ったが、どうといっておかしなところは見つからない。
しかし一つだけ、はっきりと通常では考えられない異常に気付く。

「血の匂いか?」

それは仄かにではない。
強く鼻に刺す、よく知った香り。
それこそ王の寝所には相応しくない。

「…ぐ」

くぐもった声のような音がもれ聞こえた。
それは苦悶の声にも思える。

「誰かいるのか?」

確信とも思える強い口調。
王宮の中でも最も警備が厳しいこの部屋、つまりはこの国で一番侵入が困難な場所に誰が、どうやってここに入り込んだのか、それはわからないが確かに微かな気配を拾って王はそろりと寝台から足を下ろす。

不可能と否定するよりは目の前の真実と自分の感覚を信じる、男は真っ当な現実主義者だった。

「怪我をしているのか?」

つんと鼻を突く匂いは濃さを増している。
これははっきり言って軽い怪我とか、その程度では済まない。
例え暗殺者だったとしても戦闘が可能とは思えなかった。

しかし王は剣を手放さず、油断もせずに闇が一番強く、匂いの一番強い部屋の隅にそろりと近づいた。

「答えてくれないだろうか?悪いが私は簡単に死ぬわけにはいかないのだ。そなたの状況を知る必要がある。」

近づきすぎることは無く、王はぎりぎりの場所でいまだに姿の見えない侵入者に声をかける。
正体がわからないことにはどうしようもない。

敵なら敵。
そう判じたい。

しかし万が一、本当にただの怪我人だという場合もある。
その答えを求めて王は人の良さが全面に出た困惑気味の声を出した。

王の声に反応したのか、闇の向こうでやっと音が意味を持った形として発せられた。
掠れた、声。

「…どこだ」
「!どこだと言ったのか?ここはコーラル城だ。一体何故こんな所に」

どこだ、リィ。
今まで彼といたはずだ。
ラー一族が突然現れて彼の身に迫った危険を覚えている。

「無事…なの、か?」

しかし闇にあの輝く黄金は見えない。
出血多量で目が霞んでいるのかもしれなかった。
意識は朦朧としていてもそんなところだけは冷静に分析できる。
それはもう習慣だ。

「おい、しっかりしろ。」

王は少し焦ったように先程より大きな声を出した。
声から察するに十中八九男だろう声の主。

その男は誰かを案じていた。
苦しそうな声から怪我人はその声の本人だとわかる。
その怪我よりも誰かの身の安全を確かめようとする声は演技ではないと王は直感で思った。

王はその侵入者を敵ではありえないと判断して大股で距離を詰める。
敵でないとなったら、猶予は無い。
どう考えても重傷者だ。
今すぐに手当てをしないと命が危うい。

王は外に立っているだろう衛兵にその場から離れず声をかけて自分は男に近づいた。
跪いて横たわっていた男の体を支える。

駆け込んできた衛兵が悲鳴に似た叫び声を上げるのを一喝して医者を呼びに行かせた。
多分動転しているのだろう。
でなければこの状況で王の腕の中にいる男の正体に言及しないわけも無く、まして王の傍を離れるなんて事はない。
一人が大慌てで入って来た扉から飛び出し、もう一人はありえるはずも無い出来事に対応できずおろおろとするばかりだ。
王は苦笑して、彼には気の毒だが従弟あたりにこの失態が伝われば即行根性を叩きなおす!といって厳しい訓練に引っ張り出されるに違いないと思う。

「…誰、だ?誰で、もいいが、あい、つは無事なの、か?」

苦しそうな息の下、腕の中の男が確かに自分に向かって聞いた。
自分の存在を認識しているということだろう。

それでもその口調はぞんざいで、自分が誰だと言うことにも思い至った様子が無い。
これでは多分、ここがどこだかもわかっていないだろう。

一体何故こんな状況になっているのか、今本人の口から聞き出すのは無理そうだと判断して王は彼を安心させるように笑いかけた。

「安心するといい。」

彼の心配する人が誰なのか、そんな事は知らない。
だが王は嘘はつかなかった。

無事だとは言っていない。
ただ怪我人の精神の安定のためにも少々の誤解を招く言動くらいは王の中では良心の呵責なしに発言を許されるのだ。

果たして、怪我人は王の言葉にほっとしたように力を抜いた。

「そ、うか、よかった…」

そのまま意識を手放したようだ。
彼の体の重みが腕にのしかかる。

ばたばたと煩い足音が近づく。
やっと来たか。

王は俄かに騒がしくなった王宮の気配に深々とため息をついた。
出来たらもっと隠密に事を運んでもらいたかった。

これでは従弟や幼馴染、厳しい臣下の目を欺くことは出来そうにない。
今になって彼らの長い説教や厳しい言及に思い至って王はがっくりと肩を落とす。

「少年よ、一体何の災いを運んできてくれたのだ。」

腕の中の、血にまみれた、怪しさ満点の少年は答えなかった。


この日、デルフィニアで起きた事件はそう大きなことではなかった。
しかしそれはいまだに誰も気付かない奇跡の邂逅。

デルフィニア王、ウォル・グリークの治世、11年目の事だった。







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…少年?