ダミアンは重々しく扉が閉まったのを確認してからへなへなと椅子に座り込む。
連れてこられた部屋は豪奢だった。
何もかもが一級品で、下町育ちのダミアンには触るのも恐ろしい価値のものばかりなのだろう。
父が貴族だと知ったのは母が亡くなってからだった。
小さな手がかりを頼りに父に会いに行ったのは、別にたかりたかったわけじゃない。
生まれも育ちも下町のダミアンはそれなりに生き抜く知恵も術も持っていたのだから。
あそこでは誰でもそういう風に育てられる。
少しの食い扶持を稼ぐために毎日を働き、陽気な酒で一日を終える。
それが嫌だったわけでもない。
ただ子供心に抱いた小さな憧れが、あった。
まだ母親に手を引かれていた頃、自分を急かして走る母を不思議に思いながら、何もわからず大通りに集まった時の事。
つないでいた母の手は震えていた。
胸に手を、目に涙を。
今ならその感情を理解できる。
歓喜。
人で埋め尽くされた大通りは熱気と人々の興奮で溢れていた。
人々が讃えるのは堂々と行進する騎士たち。
「ダミアン、見て!」
母が少女のように頬を染めて、まだ小さかったダミアンを抱き上げた。
人々の足しか見えず、何が起こっているのかわからなかったダミアンの目に飛び込んだのは鮮やかな色。
人々の声が爆発したように響き渡った。
ダミアンは思わず身を竦めたが、大通りを往く彼らは揺るぎもしない。
風にはためく旗。
そこに彼らがいた。
軍神だ。
「ダミアン、あれがこの国の王様よ!」
違う、あれは神だ。
戦の神だ。
その隣で、彩が踊る。
目を見張った。
「お隣にいらっしゃるのが王妃様よ!よく見ておきなさい、ダミアン!!」
後にも先にもあんなに興奮した母の声を聴いたことはない。
ダミアンは母の声を聞きながら涙した。
この国には神がいる。
金色に縁取られ、強い強いエメラルドの瞳を持った女神と、雄々しい戦の神だ。
「デルフィニア万歳!」
「ウォル王万歳!!」
「グリンダ王妃万歳!!」
人々の声は大きくなるばかり。
ダミアンはその時初めて、自分がデルフィニアの民だと実感した。
この国は決して負けない。
この国は絶対に滅びない。
なぜならここには神がいる。
その神に愛された王国は、ダミアンの国だった。
溢れて止まらない涙と、感情のままに口を開く。
声を限りに叫んだ。
「デルフィニアに栄光あれ!!」
好き勝手に叫んでいた人々が輪唱するように続けた。
「「「デルフィニアに栄光あれ!!」」」
声は届いた。
母にかかげられ、頭ひとつ飛び出たダミアンに神が笑いかけた。
あの瞬間をダミアンは忘れない。
熱い涙と、歓喜に震えた心を忘れない。
国を守る者になりたかった。
輝かしく、堂々と、自信と誇りを胸に、忠誠を誓い、彼らに付き従うものになりたかった。
あの騎士たちのように、共に戦いに赴きたかった。
母は気づいていたのかもしれない。
自分が分不相応な望みを抱いていることに。
だから最後に教えてくれたのだろう。
憧れで終わるはずだったその夢に、希望が灯ってしまった。
幼く、愚かで、純粋さだけを持って、門を叩いた日のことを後悔しているわけではない。
ただ子供だったと思う。
憧れた世界は重く、冷たく、過酷だった。
正妻の影を逃れて、寄宿舎に入り、目立たぬように生きていく日々に倦んだのは自分。
何度自分に問いかけたかわからない問いを口にする。
「何やってるんだか」
夢を捨てて逃げて、ここまで来たのにやはり死は免れないのか。
多分どちらも選びきれなかった自分が悪いのだろう。
夢を追うなら死を覚悟して追い続ければよかったのだ。
命を守りたいなら名を捨てて市井に帰ればよかったのだ。
ダミアンは変わり者の友人を思い浮かべる。
「君は知らないだろうね」
その存在がどれだけ自分を波立たせたか。
奔放さに焦がれた。
惹かれずにいられなかった。
鮮烈な印象はいつまでたってもダミアンを捉えて離さなかった。
「助けるよ、絶対に」
彼らは交渉を拒んだ。
相続を放棄するといっても首を振る。
父の容態が芳しくない今はもう、この命そのものが邪魔なのだろう。
それを仕方がないと、思ってしまうくらいには貴族生活に馴染んだ。
まだ自分が生かされているのは多分あの友人のおかげだ。
あるいは馬鹿げた噂のおかげか。
まさか攫って来た厄介者が国王の息子とは、向こうも焦っていることだろう。
もちろんダミアンはそれがただの噂であることを知っていたが、真実など命の保障の前では風に飛ぶ葉よりも軽い。
いくらでも嘘をつく。
焦がれた騎士に有るまじき覚悟だったが、もはやこの命すら盾にならないのなら、それくらいやらねばならないだろう。
「だって、ケリー。俺は君の友達なんだから」
扉が開く。
凶器を掲げた男の向こうにこの世で一番醜い女が笑っている。
ダミアンは立ち上がって彼女を見据える。
「…最後に聞きたいのですが、僕の友人はどうしています?」
あの冷たい剣がこの身に降ろうとも、決して目を逸らさないでいよう。
「まさか、次期国王ともあろう方をぞんざいに扱ってやしませんよね」
剣を持つ男たちの肩が面白いようにはねた。
「ただの戯言よ」
彼らの動揺を一言でいなして女が笑う。
それでいいとダミアンは思う。
もはや口を噤むだけで彼らはあり得るかもしれない真実に怯え、身動きが取れなくなる。
ダミアンは最後に彼女に笑いかけた。
信じないのならご勝手に。
そして目を閉じる。
出来るのは、ここまでだった。
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続く。
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