母に刃を向けたのは、彼がそうしたから。
彼が人を殺したことがあるのなら、ダミアンもそうしたかった。

彼を化け物を呼んだ母が不快で、一瞬でも同じことを思った自分が許せなくて、だけど何よりも、少しでも彼と同じものになりたくて、少しでも近づきたくて、剣を振り上げた。

ケリーはこの不純な動機に気づいていたのかもしれない。
だからきっと止めたのだ。

だって、彼の動機はいつも単純だ。
自分のために。

「遅いぞ、ダミアン!」
「ごめん!!」

先ほどの彼女の叫びに集まってきたのだろう衛兵を、ケリーは出会いざま切り伏せていく。

ダミアンはケリーから受け取った赤い色で染まった手で剣を振るった。
今度こそ、自分の命を守るために。
その背を追いかけるにはこの命が必要だと気づいた。

死ぬわけにはいかないのだ。
死を恐れるには、彼は眩しすぎた。

「ケリー、どうするの!?」

時間が経てば経つほど多勢に無勢になるのは目に見えている。
息を切らしながらダミアンは生きるつもりでケリーに叫ぶ。
少し前の自分では考えられない変化だった。
普通、この状況は絶体絶命と言うのに。

「いい頃合だ。来い!」

突然、ケリーは言った途端に回廊の窓に足を掛け、振り返らずに飛び降りる。
剣をあわせていた兵たちが驚愕の声を上げた。
負けを悟って飛び降りたとでも思ったのだろう。

ダミアンは彼らが驚いているうちに同じく窓からひらりと身を躍らせる。

彼以上にダミアンには信じるものはない。
来いと言われた。
ならば行く。

「ナーイスポジション!!」

衝撃はどこにかかったのかわからない位に重かった。
自分と背格好の変わらない彼のどこにそんな力があるのか、乱暴に引き寄せられる。

「つかまってろ!!」

その言葉を理解した時にもう一度衝撃がきた。

「少し辛抱してくれ!」

自分に言っているにしては優しく、嫌がる誰かを宥めるような声でケリーが話しかける。
地を蹴る聞きなれた音。

「コーラルだ、グライア!」

言っただけで、それは方向を変える。
その速さにダミアンは慌てて後ろを振り返る。

館の光はあっという間に遠ざかっていく。

聞きたいことは色々とあったが、ダミアンは歯を食いしばる。
そうでもしないと舌を噛み切る恐れがあったからだ。

夜陰に馬を走らせるなど自殺行為にも等しい。
しかしケリーから伝わってくるのは楽しそうな気配。
おかしなことに馬に対する苦手意識などどこにもなさそうだ。
しかも恐ろしく速い気がしたが、それは漆黒に覆われた夜のせいで流れる景色が見えないせいかもしれない。

しかし、やがて朝日が昇る。

沈む赤い景色の中、気を失って命の終わりを覚悟した昨日。
今日は昇る日に照らされた赤い景色に希望を見る。

刺さる光に無理やり目を開けた。
こんな美しい光景を見ないのはもったいない気がして。

ケリーの背の先に太陽が昇る。
ダミアンは二度、瞬いた。

涙が出た。

飛ぶように駆ける黒馬。
鮮明に蘇るあの日の光景。
間違えようもなく、それはあの日の光景のひとかけら。

そこにもこの漆黒の馬王がいた。
美しい女神を乗せて、艶やかな鬣を風に遊ばせていた。

「ケリー、君だ」

多分声は届かなかった。
しかしダミアンはかまわなかった。
幼い日に見た神の姿。

「あれは君だ。」

寸分の違いもない涙がそれを示す。
同じだけの体を廻る歓喜がそれを指す。

歓声が聞こえる気がする。
王を讃える声だ。

「ダミアン、見えたぜ!」

ケリーがダミアンを振り返り指差す。
白い王宮が見えた。

王妃以外を乗せることのなかった黒主に跨り、返り血を浴びたままの笑う彼の姿を、ダミアンは黙って目に焼き付ける。

あの日と同じように涙は止まらなかった。
だけどあの日より確かな形で心に積もる思いがある。

神の身姿に感動して打ち震えるだけではなく、ダミアンは今ここにいる彼を知っている。
憧れるだけで済ますには、彼は近くに居すぎるのだ。

侵されることのない心。
揺るがぬ精神。

ダミアンはそれを愛していた。









驚きは声にはならなかった。
その光景はあまりに鮮烈で、衝撃。

この国の民なら誰もが知っている伝説。
黒い馬に跨る戦女神。

「…ケリー」

声は情けなく震えた。

遠く、彼方から駆けてくるその馬が何者なのか。
知らないわけがない。
その背に乗る彼を間違えるわけもない。

生まれて初めて規則というものを破った。
部屋から抜け出し、門のそばで、ただひたすらに彼らの帰還を待つ。

何故、同じ年の少年の言葉を信じここでこうしているのか、彼らは明確な理由を説明できなかった。
友人たちの命を見殺しにしているのかもしれないという不安と、何とかしなければと焦燥に焼かれる感情の波に幾度も襲われ、そのたびに呟く。

『ケリー』

それは呪文のようだった。
彼が待てと言った。
だからそうする。

やがて夜明けと共に馬蹄の音が響く。
彼が乗れないはずの馬が激しく地を蹴る音。
それは彼の帰還を知らせる音にはなり得ないはずが、それでも期待を捨てきれずに顔を上げた彼らの目に映るのは、しかし望み通りのあの生意気で美しい少年の顔だった。

その目に飛び込んできた光景を無言で見つめ、見たものを整理できないままやっと口を開く。

「あれは…黒主?」

その光景を認識できても、納得できるかと言われたら否だ。
しかし自分かもしれない誰かの呟きで頭が回転を始める。

馬鹿げた噂が頭の中を駆け巡った。
王妃の息子。
王の後継者。
あるいは、黒馬を乗りこなした少年の話。

噂を笑い、真実を見なかった。
ケリーが共に笑うから、気にも留めなかった。
だけど、時にそこには真実があるのだ。

「どけ!!」

呆然としている間にぐんぐんと迫る姿をどこか非現実的に眺めていた彼らの耳を叱咤するケリーの声が届く。

思わず身を固くしたその頭上を門ごと飛び越える。
あんぐりと見上げた空を馬の腹が横切った。

普通の馬ではあり得ない。

黒い馬はきれいに着地し、速度を吸収してその場に止まった。
と、後ろから人が振り落とされる。

「ダミアン!?」

乗っている間中嫌がる気配を見せていたグライア。
ダミアンは感謝こそすれ怒れるわけもなく地面に転がる。

すっきりしたとでも言いたげなグライアの首を叩きながらケリーは仕方がないと笑っていた。
彼らは衝撃をやり過ごし、理解の範疇の出来事を声にする。

「無事だったんだね!」
「当然だろう」

ダミアンではなく、いつも通りにケリーが不遜に答えた。
たった半日だというのに、懐かしささえ覚えて彼らは涙ぐむ。

しかし誰かが息を呑んだ。
朝日に照らされて気付かなかった彼の服は何かを吸ったように重く垂れ下がり、彼の美しい頬には黒くこびり付くものがある。
その匂いは紛れもなく命の赤。

朝日を背に、自分よりはるかに大きな黒馬に跨って、笑う彼に底知れなさを感じる。
怖い。
それは本能的な恐怖だった。

目を見張ったまま身動きが取れなくなっていた彼らの視界の端で何かが動いた。

「ダミー?何やってるんだ」

聞いたのはケリー本人だった。
黒主から落とされた彼は動揺するでもなく自分の服についた埃を払い、所々に飛び散った赤い色をそのまま、ケリーに膝をついた。

「俺は君に忠誠を誓うよ」
「…はあ?」
「俺の忠誠は君に捧げる。」

騎士ではないけれど、ダミアンは胸に息づく想いに身を任せて誓った。
生涯曲げることを許されない誓約を、ダミアンはあっさりと誓う。

「…冗談!そんなもの頼まれても欲しくない」

ダミアンは頭を垂れたまま地面を見つめながら、予想通りの言葉に笑った。
でも関係ない。
ケリーの意思は聞いていない。
自分が誓いたかったからそうしたまで。

「…ダミアン?」

級友たちが遠慮勝ちに呼んだ。

「お前たちが俺の誓約の証人だ」
「…ダミアン」

ダミアンはこんな人間だっただろうか。
もっと穏やかで、礼儀正しくて、優しげな雰囲気をもっていたはずだ。

しかしダミアンは事の成り行きについていけない彼らににやりと笑ってみせる。
それはどこかで見たことのある笑い方。
気がついて彼らは一様にケリーを振り仰いだ。

心底迷惑そうな顔を隠そうともしていないケリーがそこにいた。
大きな馬に跨っているせいで見上げなければならない彼の姿。

ああ、と納得してしまった。
それだけでわかってしまった時点で、多分自分たちもダミアンと同じ穴の狢なのだ。

ダミアンを振り返り、目を合わせる。
小さな苦笑が級友たちの目に浮かんだのを見て、ダミアンは満足そうに笑う。

ダミアンは仲間に呟いた。

「デルフィニアに栄光あれ」

ダミアンはケリーの姿を目に映す。
騎士が一生に一度、捧げる忠誠は王に。
いつかあの大広間で玉座に誓うのだと思っていた。

だけど、ケリー。

君が、王だ。

「「「デルフィニアに栄光あれ」」」

輪唱する声はあの日よりずっと小さく、囁くようだった。
それでもあの日と同じく、あるいはもっと強く、ダミアンの心を叩く。

ケリー。

俺はいつか君を王にする。








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それは普通に無理だよ、少年。